キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第10帖

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    キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第10帖

     

     

    碧玉の巻 第10帖 [(025)→874 33-10] *(536)→535


    岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時である

     

    ぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ

     

    、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生ん

     

    だことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ

     

    、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど

     

    、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ

     

    、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、

     

    妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたの

     

    である道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神を

     

    はじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であるこ

     

    とは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉

     

    国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千

     

    引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時

     

    代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざ

     

    ぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三

     

    つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の

     

    岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時

     

    ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神

     

    がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天

     

    照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは

     

    素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は

     

    天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下

     

    (あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へ

     

    るのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理

     

    解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、

     

    命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神と

     

    は粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル

     

    (現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違

     

    ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大

     

    峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治

     

    らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命に

     

    も二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる

     

    御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、

     

    御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからである

     

    ぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤ

     

    マトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸し

     

    めの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光

     

    がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がし

     

    められて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい

     

    、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめで

     

    あるぞ。

     

     

    g.岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であ

     

    るぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもである

     

    ぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生

     

    んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのである

     

    ぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど

     

    、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。仏教の渡来までは、わず

     

    かながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏

     

    魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ

     

    、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これ

     

    が五度目の大き岩戸しめであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄

     

    を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれ

     

    たのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。神武天皇の岩戸しめは

     

    、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであ

     

    るぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸

     

    を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。絶対

     

    の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じら

     

    れてお生みなされた尊き御神であるぞ。このことよく理解出来ねば、今度

     

    の大峠は越せんぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりた

     

    ものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と

     

    言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正

     

    しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へて

     

    ゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻

     

    る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り

     

    育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。次の岩戸し

     

    めは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴

     

    命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。いよ

     

    いよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし

     

    近うなって来たぞ。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中

     

    にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせて

     

    あろう。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな

     

    。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたら

     

    きは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと

     

    知らせてあろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色

     

    々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄

     

    もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを

     

    生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸を

     

    ひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって

     

    来たのであるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったか

     

    ら、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。一ヒネリしてあ

     

    るのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。

     

     

     


    トミタ栞 『カラーFULLコンボ!』ミュージックビデオ(Short Ver.)

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      キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第07帖

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        キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第07帖

         

         

         

        碧玉の巻 第07帖 [(022)→871 33-7] *(533)→532


        始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それは

         

        只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に過

         

        ぎん、男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、一つ

         

        のものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すのは

         

        或る時期に於ける教ぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、道

         

        でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇  から出て 〇 に至る

         

        のぢゃ。

         

         

        g.始めの日は始めの日に過ぎん、始めの前にあるものが判らなければ、それ

         

        は只の理屈に過ぎんぞ、マコトでないぞ、根から出たものではない、枝葉に

         

        過ぎん、男から女は生れんぞ、奇数から偶数は生れんと申してあろうが、一

         

        つのものの表が男であるぞ、裏が女であるぞ、男から女をつくったと申すの

         

        は或る時期に於ける教ぢゃ、岩戸がひらけたのであるから教へではならん、

         

        道でなくてはならんと申してあるぞ、道は永遠ぢゃ、〇  から出て 〇 に至る

         

        のぢゃ。

         


        キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第06帖

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          キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第06帖

           

           

           

          碧玉の巻 第06帖 [(021)→870 33-6] *(532)→531


          わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのぢゃ、影がさすのぢゃ、禍とか悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。

           

           

          g.わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのぢゃ、影がさすのぢゃ、禍とか悲しみとか言ふ くらい(暗い)ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。この世の大泥棒をタカヤマぢゃと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢゃ。

           


          キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第05帖

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            キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第05帖

             

             

            碧玉の巻 第05帖 [(020)→869 33-5] *(531)→530


            七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかける

             

            のであるぞ、ひらけると 〇 と九と十との三が出てくる、これを宮と申す

             

            のぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これ

             

            でよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に

             

            五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型

             

            の歌であり、型の数であるぞ、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、

             

            五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、この

             

            ほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな。

             

             

            g.七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきか

             

            けるのであるぞ、ひらけると 〇 と九と十との三が出てくる、これを宮

             

            と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこ

             

            と、これでよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十である

             

            ぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇

             

            (マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、五十は伊勢であるぞ、五百は日本

             

            であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億の

             

            クニであるぞと申してあろうがな。中心に五があり、その周辺が五十と

             

            なるのであるぞ。


            ひふみ神示の解析NO1

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              http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/newmurmur_angelimg/back_index.htm

              バックナンバー 目次

               ・天使のつぶやき NO 00001 - NO 01000

              http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/murmur_db/1000/space-0488.htm

               

              天使のつぶやき
              NO488


               

              ひふみ神示の解析NO1

               



              「ひふみ神示」を岡本天明氏に書かせた背後の存在は現状ではわかりません。

              言葉遊びが好きらしく、言霊と「ひふみ神示」の中で説明しているので、そのせいかもしれません。

              ただ、神示の中で、100年位の期間について言及しているようですので、「自動書記」をした日本の方たちを追跡すれば、

              「最近の背後の存在の活動期間」

              が推定できるのかもしれません。

              江戸時代から明治にかけて、神懸かりして自動書記をした方たちは結構たくさんいることがわかります。

              また、「ひふみ神示」の中で、日本語でも英語でも関係がないような説明もしていますので、その本質的な伝達方法は言語によらない、第三の伝達の方法と考えられます。

              そして、その内容は「自動書記」をする方たちの脳のデ−タにリンクされて、その人物の経験や性格や知識で修飾されて、「自動書記」の形で出てくるようです。

              明治維新後の日本の場合、代表的な存在は「出口なお」氏です。

              彼女が「自動書記」を開始する前、神懸かりし始めて、最初の説明が

              「出口なお!私の伝達者として、お前を最低の生活や家庭環境の状態にした」

              と、その存在は「出口なお」氏に説明しているようです。

              そのことから、「自動書記」の対象とする人物は現代の社会では金銭的にも家庭環境も最低の水準にしてから、おもむろに神懸かりをすると考えられます。

              事実、岡本天明氏の経済的な不満に対しての説明が「ひふみ神示」の中には見られますし、「出口なお」氏が神懸かりして「自動書記」を始めるまでの人生は惨憺たるありさまだったようです。

              従って、神懸かりする背後の存在はその人物だけでなく、その環境をも干渉して変化させる能力を持っていると考えられます。

              また、神懸かりしてからはその人物の生活は生かさず殺さずの状態になります。

              金持ちにはしないが、貧乏して生活苦で自殺するような状態にもしないようです。

              「よく言えば清貧、悪く云えば超貧乏人」

              というようなことです。

              考えようによれば神の僕(しもべ)として選ばれるわけですから、それだけ、どん底の環境に置いて、俗世の個人的な物欲などを取り上げないと、自動書記の対象者とはなれないのかもしれません。

              逆に言えば、それだけに人類の社会に対して、これら「自動書記」をさせられた人物の環境保護=結界のようなものを設けていることが、読みとれます。

              ここで、問題になるのが、背後の存在は単数か複数かです。

              もし、複数であれば、あちらこちらで自動書記をさせているのかもしれませんが、その様な形跡もないようです。

              そうすると、この存在は単数で、あちらこちらの人物に神懸かりして、その人物の経験を使いながら「神示」のようなものを自動書記をさせていると考えられます。

              岡本天明氏以後に顕著な「自動書記」をした方はいないようですので、

              その存在はここ50年間くらい、

              行方不明!

              日本を離れた! 

              地球を離れた!

              などが考えられます。

              そこで、私としては

              「−−−神の伝令のイリシスは 50年間現れなくなり、太陽は50年間孤独になる−−−」

              と予言されている

              「神の伝令のイリシス」

              ではないかと推定しています。

              ただ現状の手持ちの情報だけですと、確定的なことが分からないのが難点です。

              「ひふみ神示」で説明するところの、大神の命令で、イリシスは地球へやってきて、太陽の様子を見がてら

              「太陽が目覚めたときの下地作りとして」

              イリシスが「ひふみ神示」などを書かせたとも考えられます。

              背後の存在で、分かることは現状ではこの程度です。

              ある面で、重要な問題ですので、検討を続けますが、何かヒントになるような情報がありましたら千成さんまで連絡ください。

              2.
              「ひふみ神示」を筆頭にして、近代の「自動書記」について、多くの方が研究されていることが分かりました。

              そこで、私の読み方ゃ解読の方法について説明してみようと思います。

              研究されている皆さんの何かの参考になれば、幸いです。

              私が、「諸世紀」を解読する時、

              「フランス語ができなかった」

              のと

              日本訳を読んだとき、

              訳者が

              「和訳に失敗していることが明らか」

              でしたから、フランス文とは読まずに、記号の羅列として向かいました。

              これについては前に説明しました。

              これは遺跡から発見された、意味不明の初めての言語の文を解読する作業に似ています。

              ただ、「諸世紀」の場合はフランス語、ラテン語、英語、などなどの辞典は経済的な問題を除けば容易に手に入れることができます。

              しかし、一つ一つの単語を日本語に変換しなければなりませんので、解読作業の前の変換の作業に時間がかかります。

              そのために、どの予言から手をつけるかが問題でした。

              しかし、これは簡単に選択できました。

              明らかに、和訳文が意味不明になっている予言詩から開始すればよいのです。

              その意味不明な予言詩がフランス文としてではなくて、明らかに暗号文であると考えられるからです。

              また、この場合ですと、フランス文法も不必要です。

              なぜなら、

              「遺跡から発見された、意味不明の初めての言語の文」

              として取り扱っているのですから、最初からその文の文法など分かりません」

              「フランス語の文法よりもノストラダムスの文法を発見する方が優先される」

              からです。

              問題にするにしても、予言ですから、全ての予言詩は未来形で書かれているはずです。

              ですから過去形などの文法の知識も検討には“はなから”必要でないわけです。

              ただ、和訳された内容で、一章一編・二編などの予言詩は過去形です。

              そこで、誰が和訳しても同じ内容になります。

              ということはそのまま、和訳文の意味を受け取れば良いことになります。

              同時に、この予言詩集は過去形や現在の会話形式の文があるのですから、「諸世紀」は

              「予言もあるが、予言形式を使って何かを語りかけている」

              ことは容易にわかります。

              全ての皆さんはこの簡単な事実に気がつかれませんでした。

              そこでフランス文学者などを引っぱり出して「けんけんがくがく」やっていました。

              しかし、これがいかに的はずれかお分かりになると思います。

              さて、私が「ひふみ神示」を読む方法ですが、その前に、次の「ひふみ神示」を見てください。

               


              五十黙示録 第四巻 竜音の巻 第十二帖(71)

               昭和三十六年八月三日、旧六月二十二日(1961年)

              (ひふみ神示 第三十四巻)(920)

              動物霊が人間の言葉を使ふことは、

              フに落ちないと申すものがたくさんあるなれど、

              よく考へて見よ、

              例へば他人の家に入って、

              其処にある道具類をそのまま使用するのと同じ道理ぢゃ、

              判りたか、

              動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、

              その人間のもつ言葉を或る程度使いこなせるのであるぞ、

              故に日本人に感応すれば日本語、

              米人なれば英語を語るのであるぞ。

              今の偉い人民がこの神示をよむと、

              理屈に合わん無茶苦茶な文章であるから、

              下級霊の所産だと断ずるなれど、

              それは余りにも霊界の事を知らぬ霊的白痴であることを、

              自分で白状してゐるのぞ、

              気の毒ぢゃなあ、

              ましてこの神示は八通りに読めるのであるから、

              いよいよ判らん事になるぞ。

               

              ★ この「ひふみ神示」には二つのことを説明しています。

              一つは

              「動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば」

              「その人間のもつ言葉を或る程度使いこなせるのであるぞ」

              とあるわけですから、

              神懸かりしている存在ははるかに高級な霊と考えられます。

              動物霊ですらする、

              日本人と感応すれば日本語をするのですから、

              神懸かりしている存在はどの国の人類とでも感応して、

              容易にその言語を喋ることが分かります。

              すなわち、人類のそれぞれの言語ではなく

              別の情報伝達手段を用いていることを意味していますし、

              憑依・神懸かりした人物の言語や資質をつかって

              「自動書記」をすることを意味しています。

              ですから、例え「自動書記」した文章が異なっていても、

              同一の背後の存在が記述させたと考えられますし、

              書かれた文章は神懸かりされた本人の経歴を調べる必要があるのです。

              「ひふみ神示」の場合は岡本天明氏の神懸かりされる前の経歴と製作した文章などです。

              二つには

              「この神示は八通りに読めるのであるから」

              「いよいよ判らん事になるぞ」

              と説明しています。

              前に、カリウ−ルイさんが10通り以上に読めると聞いたと説明していましたが、

              「ひふみ神示」に具体的に「八通りに読める」とあるわけですから、

              その本の著者が「ひふみ神示」を良く読んでいないことが分かります。

              うがった見方をすれば、「ひふみ神示」の内容を解読できなかったので、

              10通り以上と説明して、

              「こけおどし、ごまかし」

              をしていることになります。

              この様に「八通りに読める」とありますが、

              特別に難しい表現をしていない平文もありますので、

              私が見た限りでは別の意味と受け取れます。

              流し読みですので確定的には云えませんが、

              「ひふみ神示」の全てを見ますと、

              「八通り内容が書かれていて、八項目に分類して読める」

              とも受け取れます。

              例えば、

              霊界関連、

              神界関連、

              地上関係、

              宇宙の構造関係、

              人類の心がけ関連、

              大岩戸開き・びっくり関連、

              新世界関連、

              ミロクと人類関係

              などです。

              3.
              「諸世紀」もそうでしたが、この「ひふみ神示」も千編にも渡る大作です。

              そこで、解読のヒントをもっていないと分かりません。

              まず、しなければならないのが、上記しました、

              {五十黙示録 第四巻 竜音の巻 第十二帖(71)}

              の様な解読に必要な情報群の収集と分析になります。

              他にもありますが読んでいくと、

              それにらの説明があちらこちらに埋め込まれていますので、

              探してみるのも一興かもしれません。

              そうすると、この神示は構造的に良くできていることがわかります。

              それと「ひふみ神示」を書かせた背後の存在は文字遊びが好きですから、

              解読する場合は文字遊びの心で向かわなければなりません。

              もしかすると、岡本天明氏の文字遊びの資質に感応しているとも考えられます。

              そうですと、岡本天明氏の資質を再調査する必要があります。

              さて、私のやり方は「ひふみ神示」の文章を読まないで、

              "見る・視る・観る”ことです。

              具体的に例題を上げてみましょう。

              下記の「ひふみ神示」を見てください。

               


              五十黙示録 第五巻 極めの巻 第二十帖(98)

               昭和三十六年八月五日、旧六月二十四日(1961年)

              (ひふみ神示 第三十五巻)(947)

              今の学者には今の学しか判らん、

              それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、

              三千世界の岩戸ひらきであるから、

              少しでもフトマニに違ってはならんぞ。

              廻りくどいようなれど【とつぎ】の道から改めなされよ、

              出舟の港は夫婦からぢゃと申してあろう、

              ミトノマグハヒでなければ正しき秩序は生れんぞ、

              素盞鳴命が、荒ぶる神、悪神ではなく、

              人民の罪を背負って下さる救ひ主の大神であることが判らねば、

              岩戸はひらけんぞ。

              新しき世界の宮は土地(神智)(十千)であるぞ、

              住所(数真意)(すまい)であるぞ、

              永遠に在(おわ)す神は住む(澄む、数務)土地(十千)であるぞ、

              下には永遠の腕(宇丁)(うで)があるぞ。

               

              ★ この「ひふみ神示」を読まなくても、下記の内容が目につくはずです。

              今の学者には今の学しか判らん

              =学者の取り扱う科学のことを説明する

              “フトマニ=マニ車”を思い出せば良い。

              “マニ車”とは円筒形の回転塔のようなものである。

              表面にびっしりと文字や記号が書かれている。

              それを廻すと宇宙の真理、神の偉大さなどにあやかれる

              というような意味の装置です。

              これは寺院などにいくと、据えつけてあるところもあります。

              何かのおりに訪問して観られると良いと思います。

              チベットなどの仏教徒が小さな手に持てるワニ車を回しているのを報道で見られた方もあると思います。

              このワニ車には元素の周期律表の記述がしてあるものもあるようです。

              ついでに説明しておきますと、元素の周期律表には H,He,Oなどと元素記号が表になって書き込まれています。

              この場合、水素、ヘリュウム、酸素などですから、「スは 水素、ヘは ヘリュウム、サは 酸素」、

              {H,He,O}は{ス、ヘ、サ}と書き換えてもダブっていなければ良いわけです。

              例えば、水(H2O)はススサとなります。

              従って、そこの表に何を使うかは自由で、今は英語を使っているだけということになります。

              そうなると、ワニ車に漢字や記号で元素の周期律表を書き込み、廻せば

              「神がつくった宇宙の周期律表にあるような物理物質によってわれわれ人間は身体を作り」

              「ここに生きさせていただいております」

              「宇宙をつくった大神よ!」

              「貴方の身体から作った、これらの大真理を敬い感謝します」

              と云うような意味になります。

              ですから、フトマニは元素の周期律表の程度なくて、根本大原理のような意味になります。

              【とつぎ】の道=嫁ぎの道=雌雄の結合=

              遺伝子のDNA(オス)とRNA(メス)の結合と分離で細胞分裂が起こり、

              生命は存在している。

              ミトノマグハヒ=ヒトノマグハイ=

              人の交わり=性交

              などの雌雄の結合による生命の誕生の意味

              以上の言葉を承知しているとして、この神示を変換してみましょう。

              今の学者は現代の水準の科学の世界の知識しかもっていない。

              それでは今度の岩戸開き・びっくり箱が開くような局面にはその程度の科学水準では何の役にもたちません。

              三千世界の岩戸開きであるから、少しでも宇宙の大真理に逆らってはいけないです。

              廻りくどいようなれど、遺伝子の結合の水準から認識を改めなさい。

              生命の発展と進化は雌(メス)雄(オス)の存在からです。

              クロ−ン人間のような方法では人類は生まれないです。

              それは正しい、性交によってしか正しい秩序と世界は生まれないのです。

              素盞鳴命は荒ぶる神、悪神ではなく、人民の罪を背負って下さる救ひ主の大神であることが判らねばなりません。

              そうしないと、岩戸が開いたときに、生き延びる・救助されていなくて、日の目をみることができません。

              新しき世界の営みは神の智徳で納められるのです。

              そのような新世界は住まいになり皆さんは住まうのです。

              そこには永遠に在(おわ)す神が一緒に住む・存在している住まいであるのです。

              そして、その元のまつりごとは永遠の生命達の指図によるものです。

              大体、以上のようなことを、この神示は説明しているようです。

              この神示を眺めたとき、それらの単語・単文を観たとき、直ちに、何が書いてあるかはおおよそ見当がつくと思います。

              眺めるのはせいぜいかかっても2秒3秒でしょうから、

              興味があったら、文章としての構造の分析にかかりますが、

              「諸世紀」の予言詩と異なり、和文ですから、

              時間がかかっても10秒と必要がないでしょう。

              従って、この神示程度の内容ですと、

              10秒程度で何が云いたいのか、

              おおよそが分かることになります。

              それでも、「ひふみ神示」は千編に何々とする大作ですから、

              流し読みをしても、

              「10秒*千編=10000秒=約三時間程度」

              は最低必要になります。

              一気にやると、千成さんではないですが、さすがに目がショボショボしてしまいます。

              途中で、お休みを入れましたのでずいぶんと時間がかかりました。


              1年は冬秋夏春という順番かもしれません

              0

                *以下の記述に関しまして一部文字化けになっていますので、ひふみ神示の転載誤記がありましたらひふみ神示データサイトを

                ご参照くださるようお願い申し上げます。

                (神示データサイト)

                http://hifumi.uresi.org/

                 

                ひふみ神示での春夏秋冬という季節は本当は冬秋夏春という順番が正しく、神示でいうところの【逆様にかへると申して】いることの検証をします。


                つまり、春の位置は冬であり、夏の位置は秋であり、秋の位置は夏であり、冬の位置は春というのが本来の正しい姿であることについて。

                 

                【二二は晴れたり、日本晴れ。】二二八八れ十二ほん八れ
                冬(幽界、二二)は秋(ひらく、八、開き、)と和して十(たり)、日本(二、なると、鳴門、七津、夏)晴れ(春、春れ、八〇)


                よって、【二二は晴れたり】で十、【日本晴れ】も十で合わせて、十十、トドメの形を現しています。

                 


                磐戸の巻 第03帖 (239) 8-3
                  二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。一月一日、�� のひつ九か三。

                 

                g.二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。一月一日、�� のひつ九か三。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。

                 

                *【ハルマゲドン】参照
                日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より引用
                https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%B2%E3%83%89%E3%83%B3-605705

                ハルマゲドン
                はるまげどん
                Harmagednギリシア語
                Armageddon英語

                神が悪魔と戦って勝つ、聖書における世界最終戦争の場所の名。ハルマゲドンとは、ヘブライ語をギリシア語に音訳したもので、もともとはパレスチナにある古代都市メギドの丘をさした。そこは旧約聖書の時代には古戦場として有名であったが、そこから想を得て、『新約聖書』「ヨハネ黙示録」16章16節では「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』とよばれる所に王たちを集めた」というように、神が悪魔と戦って究極的に勝利をおさめる場所をさし、転じてそれは世界最終戦争を意味するようになる。現代では、冷戦末期に核戦争による東西国家間の決戦がハルマゲドンにたとえられ、小説や映画の題名(『アルマゲドン』)にも用いられるようになった。
                 なお、ハルマゲドンの語源には、ユーフラテス川の近くにハルマゲドンという地名があったという説や、エルサレムにある山の名前であるという説、ハイファ近くのカルメル山であるという説などもある。[久米 博]

                 

                *【ハルマゲドン】の形からその意味を表現してみます。
                1.春の種を蒔け、夏の種を蒔け、秋の種を蒔け、冬の種を蒔け、そうすれば、実際の季節のドン尻の大晦日は春ということが判明します。このように逆さまにかえります。
                2.春を曲げて、夏を曲げて、秋を曲げて、冬を曲げて、春曲げ冬(ドン)。


                *ひかり教とは教ではなく霊火理という理(みち)、〇一二三・・の道のことかもしれません。
                 此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあ ろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。

                 

                 教旨→理旨(みちのむね)
                天地(てんち)不(二・幽)、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不(二・幽)(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神(霊界一・ひ)、幽(霊界二・ふ)、現(現界三・み[身])、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨(理旨)とせよ。

                 神と霊(一・ひ)は一つであって、幽(ふじ・二二)と現(三・身)、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。

                *ひかり → 霊界(〇)ひ 火(|)・縦 理(一・二・三)・横


                【玉とは御魂(おんたま)】玉とは{火(|)・縦 理(一・二・三)・横と御心(��)の溶け合った姿)}
                富士の巻 第03帖 (083) 3-3
                 メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。八月の十二日、�� のひつくの �� 。

                 

                g.メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。八月の十二日、�� のひつくの �� 。上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。神界ではその戦の最中ぞ。


                *【身魂みがき】
                洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。(磐戸の巻 第16帖 から引用)

                 


                *ひふみ神示によると春夏秋冬という季節は本当は冬秋夏春という順番が正しいかもしれません。
                つまり、春の位置は冬であり、夏の位置は秋であり、秋の位置は夏であり、冬の位置は春というのが本来の正しい姿であるということを検証します。

                 

                【二二は晴れたり、日本晴れ。】二二八八れ十二ほん八れ
                冬(幽界、二二)は秋(ひらく、八、開き、)と和して十(たり)、日本(二、なると、鳴門、七��十、七津、夏)晴れ(春、春れ、八〇)


                よって、【二二は晴れたり】で十、【日本晴れ】で十で合わせて十十、トドメの形を現しています。


                磐戸の巻 第03帖 (239) 8-3
                  二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。一月一日、�� のひつ九か三。

                 

                g.二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。一月一日、�� のひつ九か三。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。

                 


                ひふみ神示黎明編の原本コピー

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                  *ひふみ神示黎明編サイトのコピーです。

                  ひふみ神示に関しては約千帖に及ぶ平易解読(意訳)を実践されております。

                  この一件を取り上げるだけでも、宗教や神道に全く興味のなかった私を

                  ひきつける結果となりました。今では、仕事そっちのけの勢いで解読しよう

                  と躍起になっています。(笑い)

                  サイトの内容で興味のあった都市攻撃(火)とノアの大洪水(水)のリアルな描写

                  から導かれる火水、カミ、ホーホー(ニホン)等をイメージしながら神示で繰

                  り返しいわれる掃除、洗濯の日々を過ごすことで世(四)はひっくり返るのかもし

                  れません。上記サイトが立ち上がる前からスタートしておりました宇宙の真相

                  『天空編』サイトのまとめの内容ともなっております。

                   

                  これから少しずつですが紹介していきたいと思います。管理人より

                   

                   

                   

                   


                  2016/09/19 までのヘッダー

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                    *ひかり教とは教ではなく霊火理という理(みち)、〇一二三・・の道のことかもしれません。
                    此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあ ろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。

                    教旨→理旨(みちのむね)
                    天地(てんち)不(二・幽)、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不(二・幽)(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神(霊界一・ひ)、幽(霊界二・ふ)、現(現界三・み[身])、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨(理旨)とせよ。

                    神と霊(一・ひ)は一つであって、幽(ふじ・二二)と現(三・身)、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。

                    *ひかり → 霊界(〇)ひ 火(|)・縦 理(一・二・三)・横


                    キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第02帖

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                      キーワード【マコト】全文検索 碧玉の巻 第02帖

                       

                       

                      碧玉の巻 第02帖 [(017)→866 33-2] *(528)→527


                      気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らしてあろう

                       

                      がな、今度は合わんものと合せるのぢゃ、岩戸がひらけたから、さかさまのも

                       

                      のが出て来てゐるのぢゃ、この行(ぎょう)、中々であるなれど、これが出来

                       

                      ねば岩戸はひらけんのぢゃ、マコトの神さえ魔神のワナにかかって御座るのぢ

                       

                      ゃ、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だまされてゐては今度の御用

                       

                      は成就せんぞ。自分自身にだまされてゐる人民も多いのであるが、ついて御座

                       

                      れよ、少しは苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ、自分

                       

                      でもビックリぢゃ、はじめからの神示よく読んで下されよ、霊かかりよろしく

                       

                      ないぞ、やめて下されと申してあろう。

                       

                       

                      g.自分自身にだまされてゐる人民も多いのであるが、ついて御座れよ、少しは

                       

                      苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ、自分でもビックリ

                       

                      ぢゃ、はじめからの神示よく読んで下されよ、霊かかりよろしくないぞ、やめ

                       

                      て下されと申してあろう。気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和

                       

                      にならんと知らしてあろうがな、今度は合わんものと合せるのぢゃ、岩戸がひ

                       

                      らけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行(ぎょう)、中々

                       

                      であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ、マコトの神さえ魔神の

                       

                      ワナにかかって御座るのぢゃ、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だ

                       

                      まされてゐては今度の御用は成就せんぞ。

                       

                       


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